新聞記事から



三神線「道後山駅」 ―創設の吉報来る―


三神線鉄道小奴可-落合両駅の中間道後山駅創設は不可能とみられていたが、二十二日決定の旨星島鉄道参議官が東京宮田武義氏を通じて比婆郡東城町野上県議のもとに吉報をもたらした。同線は来る九月三十日全通するので、直ちに設置起工して全通までに竣工する模様で、全通と同駅設置で県立公園道後山の発展を一段と嘱目されるにいたった。(東城発)

中国新聞1936年(昭和11年)8月23日付


道後山駅長 実際の記事を見る


三神線道後山駅は、来る二十一日をもっていよいよ開設するが、これに伴う駅長異動を二十一日附次の通り発令する。
八本松駅助役 角 利八
道後山駅長を命ず

中国新聞1936年(昭和11年)11月20日付



歓喜に満ちた道後山駅開通 ―地方未曾有の賑い― 実際の記事を見る


地理的に恵まれなかった県北比婆の僻地が、待望久しい三神線鉄道全通によって文化の第一歩に雄々しく登場した、光輝ある交通史上の第一頁(ページ)が去る十月十日の全通式によって、記録された歓喜興奮がまださめきらぬ十一月二十一日、三神線道後山駅が営業開始の喜びの譜を奏した。午前五時四十七分備後西城駅発上り列車は、汽笛の音もいと朗らかに、新設道後山駅に辷り(すべり)込んだのをトップに間断なく旅客・貨車混合車の着発の景気を煽り、縁喜をかついでこの日を待ち受けた木炭・木材・俵米など堆く駅頭に、これらを満載する初荷景気も上々吉と幸先を祝えば、旅客車もおとらじと超満員の混雑を極める豪勢さ。地元の比婆郡八鉾村では開業祝賀協賛会を組織し、駅前假(かり)建築バラックにおいて盛大な開通祝賀式を挙行した。道後山をはじめ連嶺一帯はすっかり冬姿となった中にも紅葉を残綴して晴れの開業を寿ほぐ(ことほぐ・祝賀する)かのごとく、新生道後山駅行進譜も朗らかに旗が駅を村を流れて喜びの絶頂に達した。参列者三百余名で正午開式、

・国家合唱
・前田村長開式の辞
・米子建設事務所長(沼田技師代読)、広島鉄道局長(代読)、野上県会議員、西田庄原警察署長、渡辺美古登村村長、織田道後山駅設置期成同盟会長、他政民の来賓祝辞
・肥田代議士、永山代議士、宮田武義氏ほか数十通の祝電披露
・前田村長閉式の辞

で式を終わり。直ちに祝賀宴に移り盛会を極めた。
なお、式に先立って早朝から花火を打ち上げ、新駅はまばゆいばかりに装飾を施し、植木宿場は幔幕を飾り、小学児童、男女青年団員らは本社寄贈の旗行列、その他郷土余興でさんざめき、万国旗の掲揚、祝開通のビラは各戸軒頭にひるがえり、駅路付近から植木宿場へ至る路傍一帯は、露店商人で埋まって本社小旗が渦の壮観を描き、祝賀景気百パーセント高原停車場の多幸をいやが上に慶祝した。

中国新聞1936年(昭和11年)11月23日付




三神線の最高地 道後山駅きょう開業
 ―山間には不釣合なモダン姿 名勝紹介の使命― 実際の記事を見る


三神線全通による地元民の要望が叶って、今二十一日からいよいよ営業を開始する道後山駅は、米子鉄道建設事務所、三神線第五工区主任淘技手現場監督で総工費二万五千円により昭和十一年九月十二日起工、同年十一月十八日竣工という短期間で、真に昼夜兼行工を急ぎ、建物は同駅が道後山公園紹介のためとて最初から設計に工夫を凝らし、山間にはむしろ不釣合と思われる人造モルタル仕上げという思い切った趣向で、三神線中類いないモダン調である。
海抜標高八百メートル(実際は600メートル。誤記?)三神線の最高地で、備後落合・小奴可隣接両駅と恰も(あたかも)上り下りの峠茶屋といった感じのする”高原停車場”だ。
東は耳木谷山、西は村造村の一本松山、南は櫛山、北は遥かに岩樋山を望むという、周囲をぐるりと山岳に囲まれた二十戸くらいの人家が集団したところだ。

盛大な開業式 ―きょう八鉾村で―


新駅開業の比婆郡八鉾村(やほこむら)では、二十一日午前十一時から広島県庁・広島鉄道局米子事務所など賓客三百余名招待、盛大に開業式を挙行する。なお祝賀協賛会では、小学児童各種団体老若男女がローカル色豊かな余興演芸で歴史的式典を祝賀すべく盛りだくさんのプランで意気込んでいる。

来て見て驚く ―新任の駅長さん―

三神線道後山駅は定員四名。駅長角利八氏は八本松駅から、助役原寅一氏は徳山駅から何れも栄転したもので、
「鉄道地図に表れた海抜標高八百メートルという高原停車場だから、定めし山間の無骨な駅だろうと思っていたのですが、都市駅を凌ぐモダンな遊覧停車場であることに、実は魂げた次第です。各方面とも連絡協力、今後大いに地方開発・名勝紹介・宣伝に努めるつもりです。」
と包み切れぬ喜悦を満面にたたえて語った。

大阪朝日新聞広島版1936年(昭和11年)11月21日付


至れり盡くせり ―道後山山頂に誇る明荘 山の家十日店開き― 実際の記事を見る


お待ちかねの広鉄”山の家”は去る五月二十一日着工以来総工費五万円を費やして施工し、道後山山頂付近海抜千二百六十九メートルの高地に二階建・モダーン容姿が颯爽お目見得した。
これは洋間十一・和室二を備え定員六十二名を収容、一泊五十円で食事の用意もあり、新聞・雑誌からラジオ・ピンポン・碁・将棋など娯楽設備まで整え、屋内売店で食料品・スキーならびに登山用品などを販売して宿泊者の便をはかっている。
十日の店開きに先立ち広鉄局では九日正午から
藤沢運輸・河合工務両部長・工藤広島運輸事務所長・石村旅客・三好保線各課長
など関係者が参列して落成式を挙行、管内最初の”山の家”誕生を祝福するはず。
なお広島から山の家まで日帰りのハイヤー予定をたててみると午前六時二十分広島駅を立てば道後山駅に同十時十八分、徒歩で山の家に午後零時三十分に到着し、秋の道後山を心ゆくまでハイクして同日午後四時帰途につき同六時二十四分道後山駅を発し同十時二十五分に広島に帰ることが出来る(写真は明荘なった山の家)

中国新聞1938年(昭和13年)10月5日付



初詣、スキーヤー ダイヤの準備OK ―広鉄の臨時列車、運航便成る―


・・・スキー客
従来の岡山ー上石見間のもののほかさらに広島-道後山間にも左記のとおり運転する【上り六〇〇〇列車】広島発午前一時十分、道後山着午前六時十分【下り六〇〇一列車】道後山発午後五時五十分広島着同十時五分
運転期日一月七、十四、二十一、二十八、二月四、十一、十八、二十五日

中国新聞1938年(昭和13年)12月20日付



白雪号も出動 ―あすはスキー日曜学校開校 各地の雪便りは上々― 実際の記事を見る


急激に低下した水銀柱のおかげで新春早々広鉄管内各スキー場は白銀に乱舞するスキーヤーで大賑わいを呈しているが、七、八日の土曜日曜をかけて管内スキー場積雪便りをたずねて見ると、6日現在で十種ヶ嶺と大山を除いていずれもスキー可能とあり、広鉄自慢の道後山山の家も設備万端を整え、8日はスキー日曜学校開校式が挙行されるほか、道後山行きスキー列車白雪号もいよいよ七日夜から第一回目を運転されることとなり銀嶺目指すスキーヤー客で八日の日曜は各スキー場とも雑沓することであろう。七日正午における各スキー場の積雪便りは次の通り、

長田三五センチ、可能▲大ヶ山四〇センチ、可能▲大佐山三五センチ、可能▲道後山七〇センチ、可能▲吾妻山一〇〇センチ、可能▲盤ノ谷三〇センチ、困難▲金尾原六五センチ、可能▲雲月山四〇センチ、可能▲三谷二〇センチ、可能▲地福二五センチ、困難▲船平山二〇センチ、可能▲十種ヶ嶺三〇センチ、不可能▲大山三〇センチ、不可能▲青野山三〇センチ、可能▲白井ヶ原二〇センチ、可能

中国新聞夕刊1939年(昭和14年)1月8日付


北備の春を訪ねて ―小奴可庄原ペン行脚―<記事抜粋> 実際の記事を見る


・・・同(1月4日)九時十一分県北にその名ありと知られた観光駅”道後山駅”についた。 県下に冠たるウインタースポーツ場として道後山スキー場の存在はあまりにも有名でありアマチュアスキーヤーたちの憧れの的だ。銀飾を凝らした雄大な道後山の大斜面は、スキーヤー来れと胸襟(きょうきん)を開いて待機している。収容人員六千余名といわれる広鉄自慢の一つ”道後山山の家”は工費並びに設備費総額五万円で食堂兼談話室・売店・スキー置場・同乾燥室・浴場・客室・ベランダ・電話・水道・新聞雑誌・ラジオ・蓄音機・ピンポンなどあらゆる近代的文化施設を配備し、同館を開放。アルピニストやスキーヤーのオアシスとして歓迎されている。なお7日からは一・二月中毎週日曜日にスキー日曜学校開設の予定で、広鉄では万全を期しこれが準備に忙殺されているが、当日は広島−道後山駅間臨時スキー列車”白雪号”を運転して”体位向上銃後のつとめ””滑れ銀嶺歓喜を乗せて!”と銃後の男女青年たちに呼びかけサービス満点。おかげで道後山ゲレンデは押しかけた遠近スキーヤー達で人々々の氾濫である。・・・

中国新聞1939年(昭和14年)1月8日付


芸備線、きょうから新たに9駅を無人化 ―6駅での貨物取り扱いも廃止―

 【岡山】岡鉄局は管内一の赤字線となっている芸備線(塩町―備中神代間八四・三キロ)の合理化計画にそって、一日から九駅を無人化し、六駅での貨物取り扱いを廃止する。
 無人化されるのは、坂根・市岡・野馳(以上岡山県)・道後山・比婆山・平子・七塚・山之内・下和知(以上広島県)の九駅。内名・備後三日市の二駅はすでに無人化されており、無人駅は全部で十一駅となる。貨物取り扱いが廃止されるのは、矢神(岡山県)・備後八幡・小奴可・備後落合・比婆山・下和知(以上広島県)の六駅。
 同局は赤字解消のため、六月に同線の合理化計画を発表、関係市町に対し協力を求めていた。同線は過疎化と自動車の普及につれて年ごとに利用者が激減。一日の平均乗客は四十五年に五千二百人という状態で、営業係数は四六九、つまり収入百円に対し四百六十九円の経費がかかる大赤字線となっている。
 沿線市町では、@過疎化への追い打ちとなるA無人駅から乗降する約八十人の園児や児童が危険にさらされる―などの理由で岡鉄局に対して反対陳情を続けていたが、同局は基本線は崩せないとの態度で無人駅化を推し進めた。同局は無人化スタート後、しばらくの間は各駅に”安全監視員”として駅員を配置、通学児童らの安全指導を続けることにしている。

中国新聞1972年(昭和47年)9月1日付


※仮名遣いはすべて修正してあります。